福岡地方裁判所小倉支部 昭和45年(むの4)32号 決定 1970年10月06日
主文
本件忌避の申立を却下する。
理由
一、本件申立の理由
本件忌避申立の理由は別紙のとおりであつて、その要点は「頭書被告事件の公判期日において、(一)裁判官石井恒は腕章を着用している傍聴人に対し腕章をとれと命令し、さらに退廷を命じたがこの二つの処分は訴訟指揮権、法廷警察権の範囲を逸脱しており又傍聴人らの憲法上保障された基本的人権および裁判公開の原則を合理的な理由なくして侵害するものであるから違法である、(二)この違法な処分を一方的に強行し、傍聴していた被告人の同僚ら市職労組合員を退廷させて事実上その傍聴を禁止した裁判宮石井恒は被告人に不公平な裁判をなす虞がある」というのである。
二、審理の経過ならびに本件申立に至る経緯
記録によると、つぎの各事実を認めることができる。
(一) 頭書被告事件の公訴事実の要旨は「被告人は北九州市役所職員労働組合(以下北九市職労という)の青年部長であるが、同北九市職労は北九州市議会昭和四三年二月定例議会に提案上提された一連の合理化条例案に反対し、同年三月一九日午後八時頃より北九市職労所属労組員約一〇〇名を動員して開会中の同市戸畑区所在同市議会議事堂廊下に坐り込み抗議を行つていたところ、同労組員数十名と共謀の上、同日午後九時四三分頃、同市議会議事堂二階湯沸場前附近廊下において、予算特別委員会に出席中の同市々長谷伍平が右特別委員会第一分科会場から同第二分科会場に移ろうとするのを認めるや、これを阻止しようとして、同市長に対し、口々に「谷が出てきた、包め、包め」「谷を逃すな」等と怒号し、その前面に立ち塞がり、同市長が「逃げるのじやない、第二分科会に出席するのだ、道をあけてくれ」と大声で同分科会に出席する旨を告げるも、さらに「包め、包め」「ワッショイ、ワッショイ」等の掛声に合わせ、互に腕を組む等して集団となり、同九時五二分頃まで同市長を押す、揉む等して同市長に対し共同して暴行を加え、同市長を前記第一分科会場に押し戻し、同市長の第二分科会への出席を阻止し、もつて公務の執行を妨害したものである。」というにある。
(二) 右事件は第一回公判期日から第三回公判期日まで裁判官寺崎次郎が担当し、第四回公判期日から第一三回公判期日までは裁判官井上広道が引継ぎ担当し、この間冒頭手続ののち検察官の証人申請に至るまでの手続が進められた。
(三) 第一四回公判期日からは裁判官石井恒が引継ぎ担当することとなり、同期日は昭和四五年五月二六日開廷され、被告人、主任弁護人三浦久、外弁護人三名、および検察官水野金治郎外一名が出廷し、四〇名位の傍聴人が在廷していた。石井裁判官は予め法廷入口に貼紙をもつて「腕章の着用を禁止する」旨の告示をしていたが、法廷内において所属労働組合の腕章を着用している被告人および傍聴人をみて、同人らに対し腕章の着用を禁止する旨の命令を出したところ、主任弁護人である申立人からその根拠および理由を示すよう求釈明があつたので、「法廷は裁判権を行使する場であり、裁判は実質的にも形式的にも公正かつ厳粛に行わなければならないこと、裁判が原則として公開の法廷で行われるのも裁判の公正の要請を充足するためのものであるから、裁判の公正、厳粛性を害する行為は当然否定されるべきものであること、本件腕章の着用は一つの示威行動とも受け取られ、これを黙認することは一般第三者に裁判の公正について疑を抱かせる因ともなりかねない」などその理由を説明した上、腕章を直ちにはずすよう促したがこれに応じないので腕章の着用者らに対し退廷するよう命じた。
これに対し申立人より裁判官の右訴訟指揮および退廷命令は憲法二八条、二一条に違反する不適法なものであるから取消されたい旨の異議の申立があり、同裁判官は理由を付して右申立を棄却した上、退廷命令の執行を命じた。これに対し被告人、特別弁護人らから右命令を批判する発言があり、同裁判官は同人らに説明を加えた上、退廷命令の執行を続行するよう命じ、裁判所職員によりその執行が続行されたが、この段階で申立人から本件忌避の申立がなされた。
三、当裁判所の判断
(一) 申立人は石井裁判官の腕章着用禁止命令および退廷命令は違法であると主張するので判断する。
(1)先ず、右各処分は訴訟指揮権、法廷警察権の範囲を逸脱した違法なものであると主張するが、同裁判官は職権調査に基き当公判廷内において被告人および多数の傍聴人がその所属する労働組合の腕章を着用しているのは、一つの示威行動とも受け取られ、これを黙認することは一般第三者に裁判の公正について疑をもたせることになると思料し、裁判の公正を維持し、裁判の場である法廷の秩序を維持するために、裁判所法七一条、刑事訴訟法二八八条二項、法廷等の秩序維持に関する法律一条、裁判所傍聴規則一条三項により本件腕章を着用している被告人および傍聴人に対しその着用を禁止し、その命令に従わないものに対して退廷を命じたものである。法廷のあるべき姿と関連して腕章の着用を許可すべきか否かの点につき、従来から種々検討がなされてきたが、法廷における腕章の着用は第三者に異和感を与えかつ示威行動とも見受けられるから、この着用を許可することはひいては裁判の公正と厳粛を害するものであるとの見解も十分なる理由をもつて有力に主張されているところであり、これと同一の見解に立つてなした同裁判官の右処分が法規の範囲を逸脱するものであると断ずることは到底できないところである。
(2)次に、右各処分は労働者である傍聴人らに憲法上保された団結権、団体行動権(憲法二八条)、表現の自由(同法二一条)、および裁判公開の原則(同法八二条二項)、を公共の福祉を害すべき明白かつ現在の危険がないのに制限するものであるから違法であると主張するが、公正な裁判を実現するためにその場である法廷の秩序を維持しかつ裁判の威信を保持することは最も重要な公共の福祉の要請の一つであり、また裁判公開の原則は裁判手続を一般に公開してその審判が公正に行われることを保障する趣旨にほかならないから、かりに労働者の団結を維持し発展させるものであつても、またその組合員たることを表現するものであつても、法廷内において「裁判の公正」、「法廷の秩序」を害するがごとき行為は許されないところであり当然その制約をうけるものといわねばならない。石井裁判官は前記のごとく腕章の着用はひいては裁判の公正を害するものと判断し、法規に従い腕章を着用している傍聴人らに対しその着用を禁止しさらに退廷を命じたものである。なお、右各処分は右傍聴人らが労働者ないしは組合員であることの故に、その権利および自由を奪うためになされたものでないことは事案の経緯に鑑み極めて明白なところである。よつて、申立人の右主張は理由がない。
(二) 最後に申立人は違法な処分を一方的に強行し、被告人の同僚ら市職労組合員を退廷させてその傍聴を禁止した石井裁判官は被告人に不公平な裁判をなすおそれがあると主張するので判断する。
そもそも裁判官忌避の制度は、消極的に裁判官を当該事件に対する職務の執行から排除するために認められているものであつて、これは裁判官の人格、学識、経験、世界観等のごとき純然たる個人的事情を理由とするものではなく、裁判官と当該事件との間に特殊な個人的利害関係が存する場合或は当該事件につき重大な予断や偏見を抱いている場合に限られるものである。したがつて事件担当裁判官がその職責である「裁判の公正」およびその場である法廷の秩序維持を全うするため、憲法および法律並びにその良心に従い独立して訴訟指揮ないし法廷警察の諸権限を行使した結果、それが偶々自己に不利益不満足であるからといつて、このことをもつて不公平な裁判をするおそれがあるものとすることはできない。そして本件の場合石井裁判官の右各処分は前示のとおり違法なものではなく、かつ右処分をしたゆえに特に同裁判官が被告人に対し不利益な裁判をする予断を抱いているものと認められるものはない。むしろ事案の経緯をみるとき、同裁判官は終始公正な裁判の実現を計り尽力したあとが窺われるのであつて、結局申立人のこの点の主張も理由がないこと明白である。
四、以上により、本件忌避の申立はその理由がないのでこれを却下することとし、主文のとおり決定する。(小河基夫 中田耕三 武田和博)